はじめに読んでほしい
「ちとらや」のこと

だれにでも、描ける

「わたしは絵が描けないから、描ける人が羨ましい」
という人がいます。

「絵は誰でも描けますよ」
とぼくはいうと、
「いやいや、才能がないから……」
という答え。

はて、「絵を描く」ことに、才能って必要でしょうか?

「わたしは料理ができないから、料理できる人が羨ましい」という人がいます。でも、彼らは「料理ができない」のではなく、「料理をしない」だけではないでしょうか。

もしも、無人島に漂流したとき、そこで料理ができないからといって、何も食べないでいられるでしょうか?
渇きや飢えから、椰子の実をとって割り、魚を食べるために火をおこそうとするはずです。

そこまで話を飛躍させなくても、海外生活で日本食に飢え、ろくに料理をしたことがないのに、現地にある食材で見よう見まねの和食をつくってなんとか生きのびた……という話はよく聞きます。絵も同じかもしれません。

多くの人は、絵が描けないのではなく、絵を描かないだけ。

息をするように、ご飯を食べるように、口笛をふくように、絵を描くという行為は、人間が古代から自然にやってきたことのひとつです。

楽しいから、描く

空腹にかられて料理をするように、ぼくたちは何にかられて絵を描くのでしょうか?

人は絵を描かなくても死ぬことはありません。絵を描かないからといって不幸せになるわけではありません。

でも、物心がついた頃から絵が好きで、暇さえあればスケッチブックに何かを描いていたぼくにとって、絵は呼吸をするのと同じくらい近しい存在。描きたいときに描けないのは、25mプールを息つぎなしで泳ぎきるより、しんどいことでした。絵を描いている時だけは無条件に楽しく、敵がいなく、自由でほがらかな気持ちに包まれていました。

しかし、ある頃からぼくと絵の間にわけいって、それを邪魔する者が現れました。保育園や学校の先生たちです。彼らはぼくが絵を描きたくないときに絵を描かせようとしたり、ゆっくり描きたいのに時間内で終わらせることを優先したり、他の子の絵と比べてみたり……まだ描いている途中のぼくの絵の上から筆を重ねて、お手本を描いてしまうひどい先生もいました。

彼らはそれが絵を教えることだとおもったのかもしれません。

純粋に楽んで描いていたのに、いつの間にか周りの評価が気になってしまう。評価を得れる子は絵が好きになり、評価されない子は絵が苦手になる。絵と子どもの豊かな関係が失われ、殺伐とした評価主義だけが残っていくのだとしたら、こんな不幸なことはありません。

体育嫌いの子どものように

ぼくは子どもの頃、絵は大好きでしたが体育の授業が苦手でした。スポーツと名のつくもの、ボールを追っかけたり、飛んだり走ったりすることが苦痛で出来るかぎりかからないようにしていました。

「体育が嫌いな子はいても、生まれながらにして身体を動かすのを嫌う子はいない」元ラグビー日本代表の平尾剛さんの言葉です。生まれた赤ん坊が身体を動かし、寝返りを打ち、はいずり回り、立ち上がる……その一連の成長は「身体を動かしたい」という欲求と喜びから突き動かされるはずだ、という話でした。ぼくはこの言葉を聞いてはっとしました。

スポーツは競って点数をとったり、身体を鍛えたりすることばかりに目がいってしまうけれど、本当は自分の身体と向き合うものなんだ。みんなとは違う自分の身体の動きを見つめ、感じ、ひらいていく。そんな体育の授業をする先生に出会っていれば、ぼくは体育嫌いにならなかったかもしれません。

絵も同じく、テクニックではなく、身体を見つめることからはじまる行為です。彼の言葉を借りれば、「美術が嫌いな子どもはいても、生まれながらにして絵を描くのを嫌う子はいない」のではないでしょうか。

ここで一緒に絵を描こう

「ちとらや」は、絵の教室ではありません、と最初に描いた意味を少し分かっていただけたでしょうか。

ここでぼくらは、絵を教えることはしません。そのかわり、絵をいろんな方向から楽しんでみたい。ふだんの暮らしのなかではできないような、大胆なことをいろいろやってみたい。絵を描くために必要なものは、たくましい想像力でも、手先の器用さでも、練習の末に体得するテクニックでもありません。

必要なものはただひとつ。身体です。身体があり、それをしっかり見つめることができれば、絵は堰を切ったダムのようにどんどんあふれ出すもの。あふれだしたものを受け止めるには真っ白い紙があればいい。

「ちとらや」は絵の家。インドの古い言葉サンスクリット語のChitra(絵)と、Laya(家)をつなげた造語です。どんな場所にいても、絵を描く瞬間は、その場所がその子にとって安心できる小さな家になりうる。そんな想いをこめてつけました。

「ちとらや」をはじめるきっかけ

わが家には4才の娘がいます。彼女は絵が大好きで、紙やスケッチブックを見ると特別悩むこともなく、たくさん絵を描いてきました。大胆な筆はこび、おもいよらない造形と色彩。ぼくはそれを観るのが楽しみでなりませんでした。

ところが昨年から幼稚園に通うようになってきて、少しずつ絵が変わってきた。これまでは大人にはわからないふしぎな生き物たちが登場していたスケッチブックには、丸と棒で組み立てられた女の子や、四角や三角の組み合わせでつくられた家、赤い丸の太陽が描かれるようになりました。絵が類型化してきたのです。

前は「○○を描いて」と頼むと、得意になってそれを描いていたのに、近頃は「○○は描けない」と言うようになってきました。絵をかきはじめた頃の彼女にとって、「○○は描けるけど、○○は描けない」というような境界線はなかったはずです。しかし、幼稚園に通うようになって、クラスメイトや先生の言葉から周囲の評価を気にするようになり、「描けないもの」が生まれたのかもしれません。

確かに幼稚園の壁に張り出された絵を見ると、どれも顔は丸い輪郭に目と鼻と口がお行儀よく並んでいる。「お顔をかいて、お目めを描いて……」と横で指導する先生の声が聞こえてきそうです。

「○○ちゃんがね、わたしが思っているピンクをピンクじゃないって言うんだよ」

としょんぼり打ち明けてくれた時もありました。

あなたが見ている色と他の子が見ている色は同じじゃないから、それでいいんだよ。それに、人を描くとき、生き物を描くとき、かならず目や口や手足を描かなくてもいいんだよ、という話をしました。手足や指だって、2、3本増えても、その子の実感が伴っていれば、まったく構うことはないとぼくは思います。

そんなやりとりをしているうちに、これは娘と真剣に丁寧に絵と向き合う時間が必要だな、と思うようになりました。一週間に一度でもいい。娘がおもうぞんぶん絵を描ける時間をつくってあげたい。

そこで思いついたのが「ちとらや」です。

自分の子だけではなく、他の子も混じって、絵をおもうぞんぶん描く時間と空間。そんなものをつくってみたい。それはぼくにとっても、新しい刺激になるし、たくさんの学びが潜んでいるように思えました。